歌謡界の女王はすごかった!美空ひばりの52年間を振り返る


▼昭和を代表する歌姫「美空ひばり」

1937年5月29日生-1989年6月24日没、神奈川県出身。

1949年: レコードデビュー
1954年: NHK 紅白歌合戦に初出場
1970年: NHK 紅白歌合戦で紅組・大トリを担当
1988年: 東京ドームでコンサートを開催
1989年: 死去

□公式HP
http://www.misorahibari.com

●わずか"9歳"で「素人のど自慢」に出場

1946年にラジオ番組「のど自慢素人音楽祭」に出場するも不合格に終わった。

「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由不合格になっている。

●「バス事故」で命拾いしたことも

1947年に高知県でバス事故に遭う。
重症だったものの、一命をとりとめた。

そのまま落ちれば穴内川で全員死亡だったが、運よくバンパーが一本の桜の木に引っかかりとまった。

美空ひばりさんが幼少のころ巡業中に大豊町で交通事故に遭い、神社の大杉に「日本一の歌手にしてください」と願を掛けた後に国民的スターになったという逸話があり、それが縁で神社のすぐそばにひばりさんの遺影碑と歌碑が建てられています。 pic.twitter.com/xPsdzdVD8X

●山口組の組長との「交流」

現在では暴力団との関わりはNGとされているが、当時は地方公演を行う際に山口組などの暴力団のバックアップがないと公演を行うことができなかった。山口組の三代目組長の田岡一雄はひばりを可愛がり、その後も親交を深めていった。

1948年12月、この山口組興行部が影響力を持つ神戸松竹劇場へ出演するため、横浜国際劇場支配人の福島通人に連れられて、母・加藤喜美枝と神戸の田岡邸へ挨拶に訪れたのが、ひばりと田岡の出会いだった

田岡三代目組長は“昭和の歌姫”美空ひばりさんの事務所の副社長を務め、ひばりさんの興行権を独占。

1958年6月に山口組の三代目組長の田岡一雄が経営する興行会社「神戸芸能社」の傘下として芸能事務所「ひばりプロダクション」が設立され、副社長に田岡が就任した。

ひばりは「おじさんがいてくれると安心」と田岡を頼り切り、田岡もひばりの小林旭との結婚と離婚の後見役をつとめるなど、ひばりの面倒をよく見た。

●"ゲテモノの少女歌手"と「批判」する大人も

"ブギの女王"として知られていた笠置シヅ子のものまねが話題を呼び、"ベビー笠置"と呼ばれることもあった。

純粋に「かわいい」と見る層がいた反面、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した。

後に作詞を手掛けるサトウハチローさんは「バケモノのたぐいだ」と新聞に書いた。

●12歳で「人気歌手」の仲間入り

1949年8月に霧島昇の「楽しいささやき」のB面として「河童ブギウギ」でレコードデビューを果たした。同楽曲は自身も出演している映画「踊る竜宮城」の挿入歌でもある。9月には「悲しき口笛」が発売され、当時では異例となる45万枚のセールスを記録した。翌月には初主演映画「悲しき口笛」が公開され、こちらも大ヒットとなった。その後も「東京キッド」(1950)、「リンゴ園の少女」(1952)などの映画に出演し、ヒットを飛ばした。

本楽曲はひばりにとって出世作となり、ひばりは本楽曲のヒットにより一躍有名になった。

●熱狂的なファンに「塩酸」をかけられることも

1957年1月に浅草国際劇場で行われたライブでファンから塩酸をかけられる事件が発生した。近くにいた俳優3人にもかかり、ライブはすぐさま中止となった。顔に傷は残らなかったものの、全治3週間の火傷を負った。

「ひばりちゃんに夢中になっている。あの美しい顔、にくらしいほど、みにくい顔にしてみたい」と書かれたメモがバックのなかにあった。

美空ひばりが浅草国際劇場でファンに塩酸をかけられ負傷(1957.1.13)。 pic.twitter.com/7lAAgIaBAR